美術史のレポートの書き方 ③ 作品分析の仕方(内容編)

更新日:2019年12月24日


さて、作品の形式的な特徴を掴んだら、次はその内容に踏み込んで分析することに挑戦したくなる方もいらっしゃるのではないでしょうか。実は、内容面で新しい問を立てて分析を行い、新知見を導き出す、ということは、美術史家として職業的に活動している研究者にとっても非常に難しい作業になってきます。形式については、ある程度客観的な観察と記述が可能ですが、その形式がなぜそのようなかたちをとるのか考察し、その意味を解釈する際には、仮説を立てて検証するというプロセスが必要になってくるからです。作者のことを知り抜いた専門家による解釈のプロセスにおいても、ことによっては不適切な仮説から出発してしまい、分析の過程でそれを修正する必要に迫られる、ということがよくあります。様々な相反する解釈が存在することもあります。また、複数の意味が一つのイメージに含意されている、というケースもあります。多くの解釈可能性があることこそが、作品研究の奥深さであるとも言えますが、ある解釈を提示するからには、その妥当性を論証して、文章を読む人に納得してもらう必要があります。そのためにはどのような手法があるのでしょうか。


まずどのような手法をとるにせよ重要になってくるのは、どのレベルの意味を、どのような手法で理解するのかを、解釈する側がきちんと理解して論証する姿勢をとることです。その際に、自分の立場がどの先行研究の見解から影響を受けたものなのか、どのように先行研究と異なっているかも、はっきりと明示することが基本になります。


ここではいくつかの解釈方法について、その概要を紹介していきます。


(1)意味の三段階


イメージが伝える意味には三段階ある、と、美術史家のパノフスキーは『イコノロジー研究』(ちくま学芸文庫)で主張しています。第一の意味は、自然的主題と言われているもので、そこに表現されている事実をもとに導かれるもっとも単純な意味です。形式的な観察をもとにして、表現されているものが何(男性なのか女性なのか、どのような時代・地域を描いているのか)で、人間であればどのような心理状態にあるのか(悲しい、怒っている、憂鬱など)を読み取る段階がこれにあたります。


次の段階が、イコノグラフィーと呼ばれるものです。各々の文化で伝習的に決められている仕草や持ち物(専門用語でアトリビューションと言います)、モチーフの組み合わせなどをもとに導かれる作品の主題がこれにあたります。西洋美術の主題について言えば、神話や宗教を主題にした表象を読み解くための『宗教美術解読事典』(河出書房新社)や、様々な抽象的な概念を寓意化した擬人像の事典『イコノロジーア』(ありな書房【16世紀にチェザーレ・リーパにより出版されたものを訳出したもの】)のような非常に便利な事典が存在します。


第三の段階は、パノフスキーがイコノロジーと呼ぶもので、単にあるイメージがどのような主題なのかを理解するだけでなく、それがある集団や階級、時代の思想や宗教とどのように関わっているのか、時には芸術家の個性にまで迫りながら解釈し導き出す意味の次元になります。同じ主題を描いていても、なぜ構図や細部表現が異なっているのか、それは特定の集団や時代に特有のものなのか、あるいは芸術家の個人的な信条と結びついているのか、特定の文学的なリソースがあるのか、そういったところから問いを発しながらイメージを読み解いていくことになります。


パノフスキーのこの理論は、美術史の方法論に大きな影響を与えましたが、実は後には批判にも晒されています。芸術作品が単に言語的な意味を運ぶだけのメディアに過ぎない存在に還元されてしまっていて、イメージやそれを支える物質性が言語的な意味を離れて提示する問題を見逃してしまう可能性がある、といった指摘、あるいは一つのイメージに対して複数の解釈が可能であることを見逃してしまう、といった指摘などがこれまでにされました。パノフスキーが提示した三つのレベルの意味が厳密には区別できない場合があったり、互いに相反し矛盾するという場合もありえます。


さらには、第一の段階の解釈から導かれるとパノフスキーが考えた事柄についても、よくよく考えてみるとそれほど「自然」には決まらない場合があります。ある人物があえて女性か男性かわからないように表現する場合や、極端に表現を抽象化したり歪曲したりして、「自然」の意味そのものを問うような作品も存在します。


例えば下のような作品の場合はどうでしょう。ロシア人画家マレーヴィチの手による油彩画《黒の正方形》(1915年)です。この作品は、画家が「非対象絵画」と呼ぶ、自然なイメージを喚起しない抽象的な次元を追求したものです。こうした作品では、どうしてこのような「自然」な解釈が困難な作品が制作されたのか、芸術家のアイディアを探る(第三のレベルの解釈をする)必要が出てきます。またマレーヴィチがこの作品をロシア正教のイコンと重ね合わせており、目では知覚することのできない絶対的な神の領域を提示しているのだ、とする見解もあります(John Milner, Kazimir Malevich and the Art of Geometry, New Haven and London, Yale University Press, 1996. Bruno Duborgel, Malevitch : La question de l’icône, Saint-Etienne, Publications de l’Université de Saint-Etienne, 1997)。作者の思想とその宗教的なバックグラウンドを探るこのような分析は、第三のレベルの解釈を駆使したものです。このように絵画的慣習そのものを大きく逸脱してある特定のアイディアを伝えるような作品であれば、文化の伝習的なイコノグラフィーの解釈をあえて経ずに、第一段階から第三段階へと解釈を移行させる必要が生じてきます。





また例えば、下のようなドイツ人画家アルブレヒト・デューラーの版画《憂鬱(メランコリア)》という作品について考えてみましょう。パノフスキーはこの作品について、『アルブレヒト・デューラー』(日貿出版社)で論じています。この人物が物思いにふけっている、という「心理的な意味」については、実はよく考えてみると、それがどこまで「自然」に判断できることなのか、疑わしくなってきます。「憂鬱(メランコリア)」の図像の伝統を知らなければ、ことによると単に疲れて一休みしているだけにも見えますし、また単なる「憂鬱」ではなく、少し目線を上にあげて「閃き」を示しているのだと解釈することも可能です。近年の感情史研究では、そもそもデューラーの時代の「憂鬱(メランコリア)」という「感情」そのものが、文化的に構築されたもの、時代によって異なるものであり、現代の「鬱状態」と完全に同一ではないということに注意を促す見解もあります(ウーテ・フレーフェルト『歴史の中の感情』東京外国語大学出版)。ということは、この人物の心理的な意味を読解するのにも、第二のイコノグラフィーの知識(頬杖をつくということが慣習的に意味するもの)と、第三のイコノロジー的分析(メランコリアがこの絵のなかで意味しているものの分析)とを駆使する必要が生じてくるわけです。





(2)解釈の複数性


上記のようなことを考えると、やはりまず、① 個々の作品に即して素材の特徴を把握し形式面の分析をした上で、② その作品の特徴にそくしてどのレベルの意味を明らかにするのかを決め、③ それにもっとも適した解釈の方法を選ぶのが、良い道筋であるように思われます。形式面の分析にののちに、芸術家が制作した別の作品や、周囲の芸術家たちの作品を比較対象にすることで分析方法を探るという方法もあります。


また、実際にはレポートには締め切りがあって無限に時間を使えるわけですから、様々な解釈可能性があることを踏まえつつ、あえて一つの解釈レベルに絞って分析をする、という方法も良いでしょう。もっぱら形式に注目する分析(「形式主義」や「フォーマリズム」と呼ぶ方法論です)、イコノグラフィー的解釈に注目する分析など、様々な可能性があります。


この解釈の可能性をさらに広げるのが、作品に付随する情報やその背景知識です。あえてパノフスキーの区分を使って言えば、もっぱら第三のレベルの解釈、とりわけ歴史学的な手法を中心に用いながら、ある時代における社会構造や社会動態、思想のダイナミズムを理解するための資料としてイメージを用いる文化史研究が存在します。古典的なものとしては、マイケル・バクサンドールの『ルネサンス絵画の社会史』(平凡社)などが挙げられます。より近年のものだと、バクサンドールとはやや違う手法ではありますがピーター・バークの『時代の目撃者』(中央公論美術出版社)などもその一つです。作品の背景を知るための方法については、「美術史のレポートの書き方 ④」をご参照ください。


何れにせよ、意味には複数の階層があり、作品の内容をより深く理解するためには、意味の階層の一つ一つについて、出来るだけその複雑さを単純化しないで考察する必要があるという点を、レポートを書く際に念頭に置いておくことは非常に重要です。意味と形式との関係についても、同じことが言えます。ある形式的な特徴が、必ずしもそれを伝える主題と完全に矛盾なく一致するわけではないこともあります。芸術家が無意識にある表現をしている、ということもあります。もちろんそうした可能性すべてを踏まえてじっくり粘り強く作品に向き合うということを、限られた時間で仕上げなければならないレポートの段階で実施することは、かなり難しいとも言えます。ただ、少なくともこのようなことを頭の片隅に置いておくだけで、議論や結論が短絡的なものになってしまう危険を避け、自分の分析と他の解釈との接続可能性をより大きく広げることができると言えます。


(3)様々な方法論(ジェンダー批評/ポストコロニアル批評/エコクリティシズム)


芸術家の意図を明らかにすることだけが、解釈の方法ではありません。芸術家が意識していないけれども、ある特定の思考様式を芸術家が内面化していて、それを無意識に示すような兆候が芸術作品のなかに表出している、ということもあります。この兆候のなかに、当時は問題として意識されていなかった社会的不均衡や権力の構図を批判的に読み取る解釈の手法も存在します。


例えば美術史家リンダ・ノックリンは、『絵画の政治学』(彩樹社)のなかで、西洋のオリエンタリズム絵画の分析を通して、見る男性と見られる女性、見る西洋人と見られる東洋文化、という、眼差しの不均衡が存在することを指摘しています。西洋美術のなかで理想化された東洋世界の表現が、当時東洋で実際に起こっていた様々な政治的問題からあえて目をそらすものであったという点も、ノックリンは批判します。こうしたオリエンタリズム批判の先駆けとしては、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)がよく知られています。


同じような手法で植民地主義を批判することも可能です。このような態度はポストコロニアリズムと呼ばれます。日本語で読めるポストコロニアルの文化批評の著書としては、ホミ・K・バーバ『文化の場所』(法政大学出版局)などが参考になるでしょう。また西洋中心主義への反省から、価値を相対化し非西洋圏の美術の見方、考え方も取り入れたグローバル・アート・ヒストリーが、現在試みられています。美術史学者ジェームズ・エルキンスは2008年に『美術史はグローバルか』(Is Art History Global ?)というタイトルの共著を編纂しています。ジョン・オナイアンスによるこの本のレビューも好意的に書かれています。また、この本に寄稿されている稲賀繁美先生の文章はこちらのページから読むことができます。


近年では、何が表現されているのか、といったことだけでなく、作品に使用されている素材に注目したり、それが周囲の環境と結ぶ関係について分析したりすることで、美術史を環境学と接続させる研究も進んでいます。エコクリティシズムと呼ばれています。例えば2018年にこのテーマでクラーク・アート・インスティチュートから論集が出ています。


それぞれの方法論は、イメージを新しい視点で解釈するためのフレームを提供してくれており、作品によってはとても斬新な読みを可能にしてくれることがあります。ただもちろん、すべての作品を余すことなく解明してくれる魔法の杖は、残念ながらありません。どのような方法論や理論に依拠するにせよ、作品には常に複数のレベルの解釈が可能であり、どの部分にどのようなスポットライトをあてるのかによってそれが意味するものが大きく変わってくるということは、やはり常に意識する必要があります。