美術作品を多角的に分析する手がかりとなるのが、その背景知識です。作品がなぜある形式をとり、なぜ特定の意味を成すのか、このことの背景には、数多くの外部的な要因があります。より広い事象に目を向けてみれば、戦争や不況といった政治的・社会的な要因は芸術を大きく変えるものですし、作品にもっとも近い環境に限定してみても、同時代に存在していた別の芸術家から受けた刺激(あるいは相互的な影響関係)や美術批評との関係、美術教育、美術制度、来歴(どのような所有者・コレクションのもとにあったのかを示す歴史)など、外的な要因は様々です。
ただ、この背景そのものが、必ずしも十分に解明されていない場合や、個々の芸術家、芸術作品との関係が曖昧な場合もあります。レポートでは、このような美術を取り巻く事象を取り上げて調べ、ある運動や作品、作者の理解につなげることも、一つの切り口になってきます。ここではとりわけ、美術を取り巻く事象に限定して、どのようなことに注目すれば良いのか、いくつかのポイントを紹介していきたいと思います。
(1)ジャンルと流派
扱う作品のジャンル(静物画、歴史画、肖像画、風景画など)や流派(古典主義、ロマン主義、新古典主義、レアリスム、印象派など)を確認した上で、そのジャンルや流派がどのような歴史的展開を遂げ、その作品が描かれたときにどのような歴史的位置付けにあったのかについて調べると、作品の理解が深まります。少し慣れてくると、作品を見ただけで、どのような流派、運動に属するものなのか判断できるだけでなく、その作品に関連する芸術運動の関係性の見取り図が頭の中で思い描けるようになります。別の画家が描いた同じジャンルの作品を比較したり、別の流派が描いた同じ主題の絵を比較したりして、その共通点や相違点を分析すると、作品の特徴や意味がより明確になることがあります。
様式論の古典的な研究としては、スイス人美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンが一九一五年に出版した『美術史の基礎概念』(慶應義塾大学出版会)などがありますが、挿絵が少なく、作品とともに様式を理解するのにはやや適していないので、最初は『西洋美術史ハンドブック』(新書館)と小学館の『世界美術全集』などで学ぶことをお勧めします。
ジャンルや流派の枠組みを逸脱して分析する手法ももちろん存在します。フランスの美術史家アンリ・フォシヨンの『かたちの生命』(ちくま学芸文庫)やドイツの美術史家アビ・ヴァールブルクの著作などはそうした傾向を示す研究の代表的なものです。
(2)美術教育
芸術運動は、美術教育の変化とも関連しています。芸術家が教育をとおし、どのような順序で制作を学び、何をお手本にし、どのような知識を身につけたのか、このようなことを調べることで、作品の生成のプロセスが解明されることがあります。また美術教育の制度や理論の変遷それ自体が、研究の対象になり得ます。日本語で読める先行研究としては、『西洋美術研究 no.2 特集:美術アカデミー』(三元社)や、アルバート・ボイム『アカデミーとフランス近代絵画』(三元社)などが参考になるでしょう。
(3)コレクター・美術市場
美術作品の主題は、芸術家のみが決めているわけでなく、それを注文するコレクターが決める場合もあります。とりわけ近代に美術市場が成熟するまでは、コレクターの要望によって、作品のサイズや素材、テーマが決められることが一般的でした。
美術市場もまた、重要な背景です。どのような人々が、どのような値段で何を好んで買っていたのか。画商たちはどのようなメディア戦略を展開していたのか。芸術家とはどのような契約を交わしていたのか。市場の変遷とそれへの姿勢によっても、各々の芸術家がつくる作品の素材、主題、サイズなどは変わってきます。
『西洋美術研究 no.8 特集:アート・コレクション』(三元社)や『西洋美術研究 no.19 特集:美術市場と画集』(三元社)に掲載された論文や文献解題が参考になるでしょう。
(4)展覧会
万国博覧会やグループ展、個展、回顧展といった展覧会もまた、重要な背景です。どのような人物が監修し、どこでどのように開催され、誰がスポンサーだったのか、といったことが重要な情報になってきます。また展覧会パンフレットでどのような説明がされているのかということも、作品や芸術運動を理解する手がかりになることがあります。グループ展によって芸術運動のアイデンティティーが形成されることもありました。この観点からの分析に関心がある方は、『西洋美術研究 no.10 特集:展覧会と展示』(三元社)を読んでみましょう。
(5)タイトルの変遷
芸術作品におけるタイトルは、作品の主題を伝える点でとても重要なものです。なぜそのようなタイトルが付けられたのかを考えるだけで、より深い考察に繋がることもあります。哲学者ミシェル・フーコーは、下のようなベルギーの画家マグリットの作品《これはパイプではない》から着想を得て、言語記号と造形的要素の関係性についての議論を展開しました。ここでは、イメージは明らかにパイプを表現しているのに、そこに文字で書き込まれたタイトルはそうではないと言っています。マグリットはこのような作品を「イメージの裏切り」と呼びました。なぜ、文字によるイメージの裏切りではないのでしょうか?これは、実のところイメージが単なる絵の具の塊でしかないのに、パイプのふりをして見る人を騙している、という捉え方ができるからです。また文字もまた実は顔料に過ぎず、イメージの一部でしかない文字が同じ画面のなかの別のイメージを裏切っているだけだ、という捉え方もできます。タイトルに込められた作家の思想を読み取るのは、ときに知的でワクワクする謎解きのようでもあります。
ただ、作品のタイトルは、意外とコレクターの手に渡ったり異なる展覧会に出品される中で変化することが非常に多いものです。タイトルの変遷によって、ときには作品に隠されていた意外な意味が露呈される場合もありますし、また芸術家自身や後世の人々が作品に制作当時とは異なる解釈を与えるという場合もあります。作品は制作されたときに完成するだけでなく、それを鑑賞する人の解釈によって別の命を与えられることがあります。タイトルの変遷もまた、そのような作品の運命を左右するものだと言えます。
プリンストン大学出版会から2016年に『絵のタイトル なぜどのようにして西洋美術は名前を獲得したのか』と題された研究書が出版されています。(Ruth Bernard Yeazell, Picture Titles: How and Why Western Paintings Acquired Their Names, 2016)
(6)美術館
美術館制度や美術館の役割、種類もまた、時代や地域によって大きく変わっています。美術館のコレクション形成は、芸術の価値の枠組みを形成する一つの大きな要因になっているので、ある芸術家の作品がいつどのように美術館の収集対象となったのかを調べると、その芸術家の社会的な認知のプロセスを知る一つの手がかりになります。また美術館のコレクション形成史は、政治や社会の変化を反映して展開する場合があり、それ自体非常に興味深い研究対象となり得ます。
(7)美術批評
作品の受容について分析する研究手法においては、美術批評は格好の素材になります。文学の領域では、1960年代から「受容理論」や「受容美学」と呼ばれる研究手法が誕生し、作品や作者についてだけでなく、読者と作品との対話が研究対象とされるようになりました。美術作品においても、作品がどのように受け取られていたのか、その解釈の次元を紐解いていくことで、作品に新しい美学的・歴史的意味を見出すことが可能になります。フランスの思想家ジャック・ランシエールが『イメージの運命』(平凡社)で主張しているように、美術批評家の眼差しが新しい時代の価値観や感性を養い、新たな創造へとつながることもあります。その中で生じる意味の齟齬、つまり「誤解」をもとに芸術を捉えなおす、ミシェル・デヴォーの『誤解としての芸術』(ミネルヴァ書房)のような著書もあります。
(8)美術史
美術史の変遷それ自体も、美術の見方の枠組みをつくってきたという意味では、時に芸術家の思想に影響を与えることがありました。壮大な美術史の歴史をまとめたものとしては、ユリウス・フォン・シュロッサーの『美術文献解題』(中央公論美術出版社)があります。
さて、これまでいくつかの外部的な要因を列挙してきました。レポートの段階でこのどれもを検討することはもちろん無理です。一本の論文でもこの全てを検討することは難しく、紙面が足りなくなるでしょう。しかし、どれか一つに絞っても良いので、作品の分析に役立てると、今までとは違う多角的な作品の見方ができるようになるかもしれません。とりわけ芸術家と社会との関わりについて関心がある方、芸術作品の解釈の移り変わりや芸術の価値の形成のプロセスなどに興味がある方には、重要な手がかりになると思います。
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